天台宗最勝院は長野県善光寺の宿坊です。信州善光寺に一番近い宿坊です。随時更新しております。
 
広々とした中庭は善光寺一山でも珍しく『忠臣蔵』赤穂浪士の1人大高 源五(子葉)による作庭だと伝えられています。

中庭は、直径4メートルもあろうかという槐(エンジュ)の大木をはじ めつつじ、モミジ等の樹木が多いのが特徴です。槐の字のいわれは、 昔、お面などを槐の木で彫刻し家の鬼門に置いた事から、木辺に鬼で、 槐(エンジュ)と書きます。

また、地方によっては、延寿と書いて、長寿や安産のお守りに使われた ことがあるそうです。難産の時、この木の枝を握らせると、苦しまずに 赤ちゃんが産めると言う事です。この事から槐の木は魔除け・長寿・安 産・幸せの木として大変喜ばれています。当山の薬師如来と何か関係が 有るのかもしれませんね。そして、秋になりますとモミジの紅葉が見応 えあります。このモミジを目的に宿をとる方もいらっしゃいます。


大高源五忠雄とは?
安部氏 膳番方・腰物方 二十石五人扶持 松平家 三十二歳 刃無一 剣信士 源五の祖先は出羽の大高城主でありましたが、父の兵左衛門が笠間領浅 野家へ仕えました。大石内蔵助の最も信頼した腹心で、事変以来その秘 命をうけて、赤穂、大坂、京都、江戸と東奔西走したそうです。文雅人 で、萱野二平の洞泉、神崎与五郎の竹乎とならび、大高子葉は、赤穂藩 の俳譜名手三羽がらすといわれていました。茶の揚のたしなみもあり、 山田宗偏に弟子入りし、吉良上野介の在否を確かめました。本懐をと げ、松平家で切腹の際、「梅で呑む苓屋もあるべし死出の山」といかに も洒落た辞世の句を書き残しています。かなりの文人であったらしいの です。
 
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